アストロロジーの歴史


 起源は、はるか遠いB.C4000年頃のメソポタミアに遡ります。
古代の人々は天体の位置と運行が、社会の動きと人々の生活に深いかかわりがあることに本能的に気づいていたのでしょう。アストロロジーの原型である円形のホロスコープはすでに紀元前に作られていました。

アストロロジーの理論が体系化され、流布されはじめたのはB.C600年頃。
勇名をとどろかせたアレキサンダー大王のヨーロッパ遠征により、ギリシャから世界へと拡がります。さらにヘレニズム文化の隆盛とともに、アレキサンドリア(現在のエジプト)で、アリストテレスといった哲学者によって信奉され、大きく開花します。現在の基礎となるホロスコープ、黄道12星座、アストロロジーのシステムが確立したのもこの頃です。

それまで惑星の運行により、人々は天変地異、農作物の生産、戦争の勝敗を占いましたが、天文学者、かつ数学者のプトレマイオスPtolemy (85-165 AD)の登場で、アストロロジーは大きく前進します。彼は、地球は宇宙の中心にあり、太陽が地球の周囲を回っているというかの天動説を唱えた人物ですが、この天才は惑星を観察していくうちに、その運行に神の声を聴き取り、理論を確立させます。

しかしアストロロジーは、その後、順調に推移したわけではなく、さまざまな曲折にみまわれます。ローマ帝国の時代には、プトレマイオスの死後、彼の天体計算式が散逸の憂き目にもあい、市民生活に浸透する一方、怪しげな占いという風評にさらされます。中世には、アストロロジャーたちは、異教徒として糾弾され、その活動は闇の世界で息をひそめつつ受け継がれていきました。

そして時代はルネッサンス(1453〜1598・1670頃)を迎え、再び息を吹き返します。イタリアの大富豪、メディチ家の庇護、奨励の下で、著名なアストロロジャーが多く輩出します。

建築家でありかつ、占星術家であったMarsilio Ficino (1433-1499)をはじめ、ネオ・プラトン派とよばれるギリシア哲学の一派の活躍により、アストロロジーは名誉を挽回する一方、17世紀にはイギリスが生んだホラリーアストロロジーの創始者である天才ウイリアム・リリーが登場します。彼は名著「クリスティアン・アストロロジー」を刊行します。

ホラリーの語源は時間という意味ですが、当時、出生日時も誕生地も不明といった顧客の質問にリリーは、試行錯誤の末、ホラリーの占術方法を生み出します。まさに「必要は発明の母」なりですね。

ホラリーは、質問日時のホロスコープを作成して占いますが、的中率の高い占術方法として現在でも受け継がれています。当時はまだ天王星、海王星、冥王星が未発見だったため太陽・月・水星・金星・土星・木星の6惑星によって占われました。少ない天体で占うために、ホロスコープが最適かどうかの判断が必要とされ、プラネタリーアワーという時刻の規則を作り、質問を選別しました。

その間、それまで常識とされた理論を覆す発見が続きます。
コペルニクスによる地動説の登場です。彼は、それまでの天動説を否定し、太陽は天体の中心にあり静止し、地球がその周囲を回っていると言う理論を提唱し、宇宙観、世界観を大きく塗り変えます。さらに天王星・海王星の発見も加わり、現在の理論が次第に確立されていきます。

アストロロジーは20世紀にはいると、大輪の華を咲かせます。
近代アストロロジーの父といわれる、イギリス人のアラン・レオAlan Leo(1860-1917),とセファリエルSepharial (1864-1929)の功績は、アストロロジーの理論を、体系化したことです。アラン・レオは生涯に30冊あまりのアストロロジーの著作を残しています。また大富豪であったエヴァジェリン・アダムスは20世紀初頭にアメリカで活躍した女性アストロロジャーですが、ある日、パーティーでホテルの火事を予言し、一躍アストロロジャーとして脚光を浴びます。

1930年代にはアメリカ・アストロロジャー協会が設立され、アストロロジーの専門機関として、世界中に情報を発信し続けています。フランスにおいては、アンドレ・バルドーが健在ですし、ドイツではハンブルグ学派がヒトラーに迫害されつつも、現在も尚、その地位を不動のものとしています。

アストロロジーは国を問わず、幾度かの試練と排斥の時代を生き続けてきました。現在でも、アストロロジーを禁止している国家や州もありますが、時代を問わず人々が切望してやまない「未来を知り、未来に備える」という要求は現在でも衰えることはありません。

アストロロジーの本来の目的である自分自身を知り鍛える一方、幸運・不運の時期と事柄をみきわめた上で、きたるべき未来を輝かしいものとするという理念は時代を超えて受け継がれています。




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